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2003-05-22 11:56
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『Free as in Freedom』の第13章「Continuing the Fight」の訳文(速水善朗訳)です。
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Japanese
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第13章 闘いは続く

時間は、傷のすべてを癒してくれるわけではないけれど、リチャード・ストールマンには、それは都合よく味方をしてくれていた。

『伽藍とバザール』から4年が過ぎてもいまだに、ストールマンはレイモンドの批判にイライラしていた。彼はまた、リーナス・トーバルズが、世界有数のハッカーとして名をあげたことにもブツブツ言っていた。彼は、1999年頃のLinuxのトレードショーで登場した評判のTシャツを思い出す。スター・ウォーズの宣伝ポスターを上手く真似て作ってあるそのTシャツは、ルーク・スカイウォーカーのようなライトセーバーを大仰に持つトーバルズを、また、ストールマンの顔をR2D2の上に描いていた。そのTシャツが、また、ストールマンの神経に触るのは、彼がトーバルズの脇役として描かれていることのみならず、トーバルズを、フリー・ソフトウェアないしオープン・ソースのコミュニティのリーダーに持ち上げるものだからである。その役割は、トーバルズ自身でさえ承諾したがらないものなのだが。「それは皮肉だ。」と、ストールマンは嘆く。「武器を取るというのは、リーナスがやるのを拒んだまさにそのことなのだ。誰もが彼をその運動のシンボルとして目するように彼はしむけた。そして、彼は戦おうとしない。何がいいことなんだ?」

ストールマンがハッカー・コミュニティ倫理の審判者としての評判を高められるようにドアを開いておいてやるという「武器を取る」のは、トーバルズにしても同じく気が進まなかった。ストールマンは、不満を言わずに、ここ数年は彼にとっても彼の組織にとっても、非常によかったと認めるようになっていた。GNU/Linuxの成功が見えないことで辺境に追いやられたストールマンだが、それでも、首尾よく主導権を再び手に入れたのだった。2000年1月から2001年12月までの彼の講演スケジュールは、六大陸に立ち寄り、ソフトウェアの自由の概念が重要な意味をもたらす国々――例えば、中国やインド――を訪れた。

名調子の講演のほかにもまた、ストールマンは、GNU GPLの広告塔としての力を高める方法を習得していた。1999年のLinux関係会社の新規株式公開バブルの雰囲気が急速にあふれていった2000年夏、ストールマンとフリー・ソフトウェア財団は、2つの大きな勝利を収めた。2000年7月には、ノルウェーのソフトウェア会社で、Qtという、GNU/Linux OS用の有用なグラフィック統合ツールの開発を行っているTrollTechが、同社のソフトウェアをGPLのもとにおくと発表したのだ。数週間後、サン・マイクロシステムズでは、そのときまでは、同社のソフトウェアの財産権を完全に支配下におさめておくのをあきらめることなく、オープン・ソースの勝ち馬に乗ろうと虎視眈々と狙っていたのだが、ついに態度を和らげ、OpenOfficeを、劣等GPL(LGPL)と、サン・インダストリー・スタンダード・ソース・ライセンス(SISSL)のデュアル・ライセンスとすることを発表したのだった。

それぞれの勝利を強調するのは、ストールマンが両社とはほとんど闘わなかったという事実である。TrollTechのケースでは、ストールマンは、ただ、フリー・ソフトウェアの教皇としての役割を果たすのみであった。1999年、同社は、フリー・ソフトウェア財団の提示した条件に合うようなライセンスをもって姿をあらわしたが、ストールマンは、ライセンスをより検討して、Qtと、GPLで保護されたソフトウェア・プログラムとは併せることはできないという、法律上の非互換性を見つけ出した。TrollTechの経営陣はストールマンとの闘いに疲れ、開発者に、ストールマンが取り上げた互換性の問題に道を開くように、ついに、Qtを、GPLで保護されたものと、QPLで保護されたものの2つのバージョンに分けることに決めた。

サンのケースでは、彼らは、フリー・ソフトウェア財団のいう条件に合致するように望んだのだった。1999年、オライリーのオープン・ソース・カンファレンスにおいて、サン・マイクロシステムズの共同設立者でありチーフサイエンティストであるビル・ジョイは、同社の「コミュニティ・ソース」ライセンスを擁護した。これは本質的には、ユーザーに対し、サンのソフトウェアをコピーや改変を譲歩するもので、サンと使用料の契約交渉をしない限りはそのソフトウェアに料金は課されないというものだ。ジョイのスピーチから1年後、サン・マイクロシステムズのマルコ・ボエリーズ副社長は、同じステージに現れ、GNU/Linux用に特化して設計された統合オフィス・アプリケーションであるOpenOfficeに用いる同社の新しいライセンスについてはっきりと述べた。

「それは、3文字で綴れます。」ボエリーズは言った。「GPL、と。」

同時に、ボエリーズは、同社の決定がストールマンとはほとんど関係がないもので、GPL保護のプログラムの機運によるものが大きいと言った。「異なった製品は、異なったコミュニティをひきつける、という認識が生じていた。利用者が使うライセンスは、利用者がひきつけたいと思うコミュニティの種類によるのだ。」と、ボエリーズは言った。「[OpenOfficeによって、]GPLコミュニティと最高の関係を持つことができる。」1

このようなコメントは、GPLの潜在的な力を示すものであり、間接的には、それを創り上げるのに最大の役割を果たした政治能力に恵まれた男を明らかにするものであった。「GPLがありのままの姿であるようにその草案を作るなんて弁護士なんて、一体いるものか。」コロンビア大学の法学教授でありフリー・ソフトウェア財団の顧問であるエベン・モグレンは、言った。「でも、それは機能している。そして、それが機能するのは、リチャードの設計哲学のおかげなのだ。」

本職のプログラマであったモグレンは、1990年、ストールマンが個人的な問題で法律的なアシストを求めたときにまでさかのぼって、ストールマンとの無償の仕事の足跡をたどる。その当時は、暗号専門家のフィリップ・ジマーマンが連邦政府と法的紛争をしているときで、時マーマンとともに取り組んでいたのだが2、モグレンは、そのリクエストを受けて名誉だったと言う。

「ぼくの生活では毎日Emacsを使っているって、彼に告げた。借金を精算するためには、たくさんの法律仕事をすることになるってことも。」

そのときから、ストールマンのハッカー哲学が法律の領域で交わるのを観察をするのに、モグレンは、おそらく他の誰をおいても、一番の機会を得た。モグレンが言うには、ストールマンの法律へのアプローチとソフトウェア・コードへのアプローチは、大きくは同じだ、と。「法的文書について行うべきことはすべてのバグを取り除くことだと考えても、それはあまり意味を無さない、と法律家として言わなければない」と、モグレンは言う。「どんな法的プロセスにも不確実な点はある。大方の弁護士は、自分らのクライアントのために、不確実性の恩恵を捕捉する。リチャードの目標は、まったく正反対なのだ。彼の目標は不確実性を取り除くことだが、それは本質的に不可能なことだ。全世界の全ての法体系という全ての環境をコントロールする1つのライセンスの草案を書くなんて、本質的に不可能なのだ。でも、そこにたどりつこうとするなら、彼の方法で行くべきなのだ。それが到達しなければならないものへとだいたいは到達している、結果としての優雅さもそう、設計における結果としての簡素さもそう。そして、そこから、ちょっとだけ法律仕事をすれば、事はずいぶん先に進むのだ。」

ストールマンのアジェンダを推進する役目を負っている人間として、モグレンは、協力者になりたがっている人の欲求不満を理解する。「リチャードは、自分で本質的だと考える問題には妥協したがらない人物だ。」モグレンは言う。「それに、彼は、軽く、言葉をひねったりとか、巧妙な多義的な言葉を求めることはなおのこと、することはないのだ。巧妙な多義性というのは、人間社会がしばしば大勢の人から求めるものだけれどね。」

フリー・ソフトウェア財団が、GNUの開発とGPLの執行という以外の範囲の問題に力を入れたがらないゆえに、モグレンは、有り余るエネルギーをエレクトロニック・フロンティア財団(EFF)へと注ぎ込んでいる。EFFとは、ドミトリ・ スクリャロフのような最近の著作権事件の被告への法的援助を行っている組織である。2000年、モグレンは、DVDの暗号読解プログラムであるdeCSSの流通を行っているハッカーを召集し、顧問となった。この両事件でのクライアントたちが沈黙を守る中、モグレンは、ストールマンの頑固さの価値を賞賛するようになっていくのであった。「リチャードと過ごした数年間で何度も、彼は言った。『ぼくたちは、これをしなければならない。あれをしなければならない。ここに、戦略的な解決策がある。』加えて、リチャードの返答はいつも、『ぼくたちが全てをしなければいけないわけではない。』待つだけだ。それが成されるのを待つことだ。」

「で、あなたは何を知っているんだい?」モグレンは付け加える。「総合的には、彼は正しい。」

そんな発言は、ストールマン自身の自己評価は否定してしまう。「ぼくは、ゲームをプレイすのは得意じゃない。」と、ストールマンは言う。狡猾な戦略家として目される彼への目に見えない批判を気にして。「前を見て、他の誰かがしようとするかもしれないことを予測するのも、得意じゃない。ぼくのアプローチはいつも、本質に焦点を合わせることだ。『ぼくたちができる限り強く本質を形作っていこう』って。」

GPLが一般に受け入れられてゆき、その吸引力が強くなっているのは、ストールマンやGNUの仲間たちの財団への最大の賛辞である。彼自身を「最後の本物のハッカー」と宣伝することはもうないが、ストールマンはそれでも、フリー・ソフトウェア運動の倫理的な枠組みを作った、と唯一人ひとりクレジットされる人物である。その枠組みの中で働く今のプログラマたちが快適に感じているかどうかは重要ではない。彼らが持っている選択肢全体が、ストールマンの偉大な伝説なのである。

この点でストールマンの伝説を議論をするのは、まだちょっと早い。ストールマンは、この執筆時で48歳であり、伝説になるにはまた数年早い。それでも、フリー・ソフトウェア運動が自動操縦されるという性質は、ソフトウェア産業との日々の闘いの外側や、より堂々とした歴史的な設定での中でのストールマンの人生を、試すようだ。

ストールマンは、名前が残るのか、推測する機会をすべて拒否する。「未来はどんなふうになるだろうという細かいプランに取り組むことができたことはない」と、ストールマンは、まだ時期尚早な墓碑銘を取り上げて言う。「ぼくがただ言えるのは、『ぼくは闘いつづける。ぼくがどこで勝つのかなんて誰が知っているというんだい?』」

彼の闘いを取り上げるのに、何の疑問もない。ストールマンは、譲らなければ最強のチャンピオンになるであろうまさにその人物に譲っているのだ。それはまた、彼の率直さの証拠でもある。ストールマンのかつての政敵が、いまだに、彼に何ことかを言おうとしているという倫理的な性質の証拠でもある。とはいえ、イデオロギーとしてのストールマンと、ハッカーの天才としてのストールマンの間の緊張関係は、伝記作家には不思議がらせるものがある。ストールマンの個性が、もうすでにそこに届かないということになったとき、ひとはストールマンをどう見るのだろうか、と。

本書の草稿の早い段階で、「100年間」の問題を翻案した。ストールマンとその仕事の客観的見解を促すことを望んで、ソフトウェア産業界の様々な著名人に、今の時間軸から抜けて、100年後の未来でフリー・ソフトウェア運動を振り返る歴史家の立場に立ってみるよう頼んだ。現在の観戦場所からだと、ストールマンにかつてのアメリカ人との類似点を見るのは簡単だ。彼らの生きていた時点では、いくぶん周縁に位置するのだが、彼らの年代との関係では、歴史的な重要さが高められるのである。先見論的哲学者であり、『市民的抵抗の思想』の著者であるヘンリー・デイヴィド.ソーロウと、シエラ・クラブの創設者であり、現代環境運動の先駆者であるジョン・ミューアとの間に簡単な比較ができる。そしてまた、またの名を「常識人」とするポピュリスト運動のリーダーであり、ウィリアムズ・ジェニングズ・ブライアンと、独占の敵であり、それでも、力があり、歴史的には重要でなく消えていきそうな人物とも比較ができる。

ストールマンは、ソフトウェアを公共の財産と見立てた最初の人物であるわけではないのだが、GPLによって、将来の歴史の本の脚注で感謝されるのだ。この事実により、現在のフレームの外側からリチャード・ストールマンの伝説を、踏みとどまって検討する価値はあるように思えるのである。GPLは、2102年においてもソフトウェア・プログラマが重宝するものであるのだろうか? つまり、道端に転げ落ちたりしていないだろうか? 「フリー・ソフトウェア」という言葉は、今日では「銀の自由鋳造」というくらいに政治的に古風なのではないだろうか。そうでなければ、後世の政治的な出来事をぞっとするほど予知しているのではないだろうか。

未来を予測するなどというのは、危険をはらむ競技だ。でも、大方のひとは、その問題が提示されると、飛びつきたくなるようだ。「今から100年後、リチャードやその他数名が、脚注以上に値するようになる。」モグレンは言う。「彼らは、記述の本文で目されることになるのだ。」

その「他数名」に、将来の教科書の何章かへとモグレンがノミネートするのは、ストールマンのGPLのアドバイザであり、後のエレクトロニック・フロンティア財団の設立者となるジョン・ギルモアと、1982年の『リテラリーマシン』の著者であり、テッド・ネルソンの名で知られるセオドア・ホルム・ネルソンである。モグレンが言うに、ストールマン、ネルソン、ギルモアのそれぞれは、重なるところなく、歴史的な重要性で顕著なのである。モグレンは、ネルソンを、「ハイパーテキスト」という用語を捻り出し、デジタル時代の情報の所有権の窮地を明らかにしたと一般に見られている、とクレジットする。その一方で、ギルモアとストールマンを、情報のコントロールや組織の形成――ギルモアの場合はエレクトロニック・フロンティア財団であり、ストールマンの場合はフリー・ソフトウェア財団である――の政治的に否定的な効果を、そういった効果に反作用するように、明らかにしたことで悪名を馳せた、とクレジットする。とはいえ、モグレンが見るに、そのふたつは、本質としてストールマンの活動がより個人的であり、より政治的ではない、というものであるのである。

「フリーでないソフトウェアの倫理面での含意が、早い段階で彼には特にクリアだったという点で、リチャードは類稀なのだ」と、モグレンは言う。「リチャードの人格をなんとかしなければならないということは多い。彼の人格は、多くのひとびとが彼のことを書くときに、リチャード・ストールマンのライフ・ワークにおける付随物として、あるいは欠点とさえ描かせてしまうものなのである。」

ギルモアは、気まぐれなネルソンと、短気なストールマンの中間で、「混じりあった名誉」というような何かを残したのだが、それにもかかわらず、彼はモグレンの議論に賛成するのだ。ギルモアが書くに:

思うに、ストールマンの著作は、トマス・ジェファーソンのそれと同様に、長持ちするだろう。彼は、かなり分かりやすい書き手だし、また、彼の考え方の原理も明確なのだ。ストールマンが、ジェファーソンほどに影響力を持つことになるかどうかは、我々が「ソフトウェア」あるいは「技術的に課された制約」と呼ぶところの抽象概念よりも、我々が「市民権」と呼ぶところの抽象概念が今から100年後に、より重要なものとなりえているかどうかにかかっているのだ。

ストールマン伝説の他の要素も見逃せない。ギルモアが書くに、それは、GNUプロジェクトが開拓した協働ソフトウェア開発モデルである。ときどき欠陥も出てはくるが、そのモデルはソフトウェア開発産業でのスタンダードへと発達した。ギルモアが言うに、この協働ソフトウェア開発モデルは、GNUプロジェクトやGPLライセンスやその他ストールマンが開発したソフトウェア・プログラムなんかよりもずっと影響力があるものとなるかもしれない、と。

インターネットより前の時代は、ソフトウェアで遠くの人とコラボレーションをするなんてことは、非常に難しかった。お互いに知っていて信頼しあっているチームにおいてさえも。リチャードは、特に、互いにはめったに会うことがない、組織化されていないボランティアによる、ソフトウェアの共同開発を切り開いた。リチャードは、これを行うための基本的なツール(TCPプロトコル、メール・リスト、diffとpatch、tarファイル、RCS、CVS、リモートCVS)は全然作らなかったが、効率的に協業できるようなプログラマの社会的集団が形成できるように、それらを使ったのだった。

スタンフォード大学の法学教授であり、2001年の『コモンズ』の著者であるローレンス・レッシグは、同じように強気だ。多くの法学者と同様に、レッシグは、昨今のいわゆる「デジタル・コモンズ」の主要な擁護者として、GPLを見ている。「デジタル・コモンズ」とは、コミュニティの所有するソフトウェア・プログラムや、この30年で、インターネットを指数関数的に成長させるひきがねとなったネットワークや通信の基準という莫大な集積である。レッシグは、ストールマンをインターネットの開拓者として目すよりもむしろ、コンピュータ技術をより広いスケールで革新させた、ヴァネヴァー・ブッシュ、ビント・サーフ、J. C. R. リックライダーというような人物たちを目する。彼は、ストールマンの衝撃をむしろ個人的、内省的、究極的、独自的と見ている。

[ストールマンは]議論をそうあるべきというものから変えた。彼は、ひとがどれだけ危機に瀕しているかを自覚させた。そして、彼はそういった理想を推し進める装置を作りあげた…。言ってみるに、私は、サーフやリックライダーのコンテクストにそう彼を位置付ければいいかまったく分からない。その技術革新は異質なものなのだ。単にある種の、インターネットを可能にするコードについてなのではない。[それは]むしろ、人々にインターネットのある種の価値を計らせるものだ。そんな階級に、過去に未来にも人物がいたとは私には考えられない。

もちろん、誰もが、ストールマン伝説を同列に見ているわけではない。エリック・レイモンドは、オープン・ソースの主導者でストールマンのシーダーシップの役割が1996年から大きく衰退してきたと感じているのだが、彼が見るに、2102年の水晶玉を見てみると、そこには混じりあったシグナルがあるのだ。

ストールマンの仕事(GPL、Emacs、GCC)は、情報世界の土台として、革新的な仕事として見られるようになるだろう。歴史は、RMSが論じた理論のいくつかには、ちょっと親切でないものになるだろうと思う。彼の領土や、カルトのリーダーとしての行動に対する彼の個人的な傾向には、まったく親切ではない。

ストールマン自身もまた、混じりあったシグナルを見ているのだ。つまり:

20年前からのGNUプロジェクトについて歴史が語ることは、公衆の知識を利用する自由の闘いに誰が勝利を収めるのか、次第だ。もし、ぼくたちが負ければ、ぼくたちはただの脚注となろう。もし、ぼたくちが勝っても、ひとびとがGNU OSの役割を知ることになるかどうかは、不確かだ。――人々が、それは「Linux」だと考えているとすれば、何がどうして起こったのか、間違った像を描くことになろう。

でも、ぼくたちが勝ったとしても、今から100年後のひとたちが学ぶ歴史は、政治的に何が支配しているかによることになるのだろうね。

19世紀の歴史的なアナロジーを探すと、ストールマンは、ジョン・ブラウンの姿を呼び起こす。その好戦的な奴隷廃止論者は、メイソン・ディクソン線の片側からすればヒーローだったが、もう片側からすれば、狂人であった。

ジョン・ブラウンの奴隷の抵抗は、続くことはなかったが、彼は戦いを続ける中で、彼は効果的に、奴隷は意思への全国的な需要を喚起したのである。南北戦争中、ジョン・ブラウンはヒーローだった。1900年代にもなろうというすでに100年後、歴史の教科書は、彼を狂人と教えた。人種差別の時代には、偏見は恥知らずであったころ、アメリカの政党は、南部が自分たちについて話したがっていることや、歴史の教科書が、南北戦争やその関連の出来事について、真実でない記載をしていることを認めたのだった。

そんな比較は、自ら自覚するストールマンの昨今の仕事の周辺的な性質と、彼の最近の評価の双対な性質の両方を、顕にする。ストールマンの評判が、南北戦争後、南部が合衆国へ再統合期された後の時代にブラウンが受けた同じ程度の汚名にまで貶められるというのは、難しいだろう。彼が時折、戦争のようなアナロジーをするにも関わらず、ストールマンは暴力を誘発させることはほとんどなかった。それでも、ストールマンのアイディアが、積もった灰の上で終ってしまうというオチになる将来は、想像に難くない。フリー・ソフトウェアの流行は、大衆的な運動ではなくて、権力やプロプライエタリな誘惑に対する個人的な戦いの集積であるのだ。ストールマンは、勝つことのできないシチュエーションを創り上げてしまっているように見える。特に、同じく頑固な意思を持ったたくさんの同調者にとっても。

ここで再び、ストールマンの偉大な絶えない伝説が誰かによって解かれるであろうその意思がそれである。ここ10年間、近くで見ていたモグレンは、ストールマンの人格を、ストールマンの人生における作品への付随物とか、生産的とは正反対とかと見る者へは注意を喚起する。モグレンは言う、その人格がなければ、議論できるような大切な作品は、ほとんど生まれなかったであろう、と。前最高裁官吏であったモグレンは言う。

いいかい、ぼくが尽くした中で最も偉大な人物は、サーグッド・マーシャルだ。どうして彼が偉大になったのか、ぼくは知っている。彼がやれる方法で、世界を変えていくのができたのはなぜか、ぼくは知っている。比較としようとするなら、危険にさらされることになるだろう。というのも、これ以上違くなりようがないから。サーグッド・マーシャルは、社会にいる人物で、社会の落伍者を代表したが、それでも、社会にいる人物であった。彼のスキルは、社会的なスキルだった。でも、彼はまた、彼の全ての部分だった。他のどんな尊敬のされ方とも違い、いまその意味で比較している人物は、すべての部分でまとまっていて、スターとなる本質で出来上がっており、そのすべてを通している。それが、ストールマンなのだ。

そのイメージを定着させるために、モグレンは、2000年春に一緒に過ごしたときのことをよく思い出す。VA Linuxの新規株式公開の成功は、いまだに、商業メディアで反響を呼んでいたし、フリー・ソフトウェア関係の出版物のダース半分ほどは、そのニュースの中にあった。コメントを求める記事や出版物の渦巻く旋風の中で、モグレンは、ストールマンとの昼食の席で、嵐の目の中へ放り投げられたような感覚を思い出す。彼が言うに、次の一時間、会話は穏やかにあるひとつの話題に発展していった。GPLを強化しよう、と。

「ぼくたちはそこに座って、西ヨーロッパと同じ問題について取り組んでいくことや、コンテンツの所有権の問題がフリー・ソフトウェアを脅かし始めたらどうするかということを、話ていた。」モグレンは回想する。「話をしているとき、ぼくは、通りすがりのひとからは、ぼくたちはどういうふうに見られるべきなのか、とちらっと思った。ここにいるのは、小さいひげを生やした2人のアナーキストで、次のステップを構想し計画しているのだ。そして、もちろん、リチャードは、いつもするように、髪から結び目をひっぱり、スープの中へと落としている。ぼくたちの会話を聴く人は誰でも、ぼくたちを狂っていると思うだろう。でも、ぼくは考える。いままさにこのテーブルで、革命が起こるのだ。これが、起ころうとしていることなのだ。そして、この男が、そうさせる人物なのだ。」

モグレンは言う、そのときが一番、そのときでこそ、ストールマン・スタイルの基本的な簡素さが、アピールされたのだ。

「それは楽しかった。」モグレンは回想する。「ぼくは彼に言ったんだ。『リチャード、いいかい、キミとぼくは、お金を産む革命からは外れた男ふたりだよ』と。それで、ぼくはランチをおごってあげた。だって、彼にはそのお金がないことをぼくは知っていたから。」

脚注

  1. マルコ・ボエリーズへのインタビュー(2000年7月)

  2. ジマーマンの法律への苦悩についてより多くの情報は、スティーブン・レヴィのCrypto(『暗号化』)p. 287-288を読まれたい。Free as in Freedomのオリジナル・バージョンにおいては、国家安全保障局から、ジマーマンを弁護することに助力したと、私は伝えた。レヴィの解説によると、ジマーマンは、国家安全保障局ではなく、米連邦地検と米関税局の捜査を受けていたのだという。