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2003-05-21 22:01
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『Free as in Freedom』の第9章「The GNU General Public License」の訳文(後藤洋訳)です。
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Japanese
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第9章

GNU 一般公衆使用許諾契約書

リチャード・ストールマンは、1985年の春までに GNU プロジェクトの最初の一里塚を築いた。Lisp をベースにした Emacs のフリーソフトウェアのバージョンである。しかし、このゴールまでに難関が二つあった。第一に、Emacs がプラットフォームから独立したものになるように作りなおす必要があった。第二に、同 じように Emacs コミューンを作りなおす必要があった。

ユニプレスとの紛争は、Emacs コミューンの社会契約の欠点に光をあてた。ユーザがストールマンの専門家としての洞察力に依存しているところでは、コミューンのルールは守られていた。しかし、たとえば1984年よりも前のユニックス・システムのように,ストールマンが最上級のハッカーとしての地位をもはや失ってしまったところでは、個人や会社は、好きなように彼ら自身のルールを作ることができた。

著作者特権と修正の自由との間の緊張関係は、GOSMACS 以前につくられていた。1976年の著作権法は、アメリカの著作権法を見直して、ソフトウェアプログラムに著作権の法的保護を拡大したものだった。その法律のセクション102(b) によれば、これからは、個人と会社は「プログラムに化体した現実のプロセスまたは方法」ではなく、ソフトウェアプログラムの「表現」に対して著作権を持てるようになった。1 つまり、プログラマと会社は、ソフトウェアプログラムを物語や歌のように扱える。他のプログラマは、作品からインスピレーションをもらうのはいいけれども、そのままコピーしたり非風刺的派生作品をつくることはできない。そのときは、なによりもオリジナルの作者の許可をとりつける必要がある。新法は,著作権表示を欠いたプログラムでも著作権が保護されることを保証していたが、プログラマは、ソフトウェアプログラムに著作権表示をつけて、直ちに自分の権利を主張した。

最初、ストールマンは、驚きの目でこれらの表示を眺めていた。過去のプログラムからソースコードを借りていないソフトウェアプログラムは稀だった。ところが、議会と大統領の署名は、共同してつくりあげたプログラムを個人的著作物だと主張できる権力をプログラマと会社に与えてしまった。それはまたインフォーマルなシステムの中に形式的手続きを導入するものでもあった。ハッカーがソースコードの血統を、数十年分ではないにせよ、数年分にわたって具体的に示すことができる場合でさえ、各著作権表示の戦いに注ぎ込む資源と金は、ほとんどのハッカーの資力をこえるものだった。簡単に言えば、昔はハッカー対ハッカーの論争だったものが、今は弁護士対弁護士の論争に変わったのだ。そういうシステムでは、ハッカーではなく会社が自動的に有利な立場に立った。

ソフトウェア著作権の提案者の側にも、反論はある。著作権がなければ、作品はパブリックドメインになってしまうかもしれない。作品に著作権表示をつけるのは、品質の表示としても役立つことだ。著作権に自分の名前を結びつけるプログラマや会社は、自分の評判も著作権に結び付けているのである。最後に、著作権は、所有者の声明であるとともに契約でもある。ライセンスの柔軟な形式として著作権を使えば、著作者は、ユーザーの側の一定の行動形態の見返りに特定の権利を与えることができる。例えば、著作者は、無断コピーを抑制するために、エンドユーザーは商業的派生品をつくらないという条件で権利を与えることができるのである。

ストールマンのソフトウェア著作権法に対する抵抗を柔軟にしたのは、この最後の論拠である。GNU プロジェクトを率いた年月を振り返って、Emacs 15.0 のリリースの頃、著作権の性質が有利な場合もあることがわかってきたとストールマンは言う。Emacs 15.0 は、GNU プロジェクトの Emacs に先立つ最後の重要な改良だ。「E メールのメッセージに著作権表示のライセンスを『 一字一句同じコピーなら許す』と書き加えただけのものがあった。あれは確かにインスピレーションだった。」とストールマンは回想している。

ストールマンは、ユーザーがコピーをつくって配布する権利を与えた著作権を Emacs 15 のために起草した。それは修正を加えたバージョンをつくる権利もユーザーに与えていたが、GOSMACS の場合のように、修正版に独占的な所有権を主張する権利は認めなかった。

Emacs コミューンの社会契約を成文化する役にはたったものの、Emacs 15 のライセンスは GNU プロジェクトの目的にはまだ「インフォーマル」すぎたとストールマンは言う。Emacs の GNU バージョンをつくり始めるとすぐ、ストールマンはライセンスの言葉を補強する方法をフリーソフトウェア財団の他のメンバーと相談し始めた。彼はまたフリーソフトウェア財団の設立を手伝ってくれた弁護士にも相談した。

ボストンの弁護士で知的財産権法が専門のマーク フィッシャーは、この時期にストールマンと交わしたライセンスの議論を次のように回想している。「リチャードは、ライセンスがどんな働きをすべきかということでは非常に強い見解を持ってましてね。彼には、二つ原則があったんです。一つは、絶対、可能な限り、ソフトウェアをオープンなものにするんだということです。もう一つは、他人も同じライセンスを採用するように仕向けるんだということです。」

他人も同じライセンスを採用するように仕向けるというのは、私的に所有された Emacs のバージョンができる抜け道をふさぐということを意味した。ストールマンとフリーソフトウェアの仲間たちは、抜け道をふさぐための答えを思いついたのである。すなわち、ユーザーは、修正版を発表する限り、GNU Emacs を自由に変更することができる。その場合には、その結果できた「派生的」な作品も、同じ GNU Emacs ライセンスを持たねばならない。

この最後の条件の革命的性質が十分に理解されるまで少し時間がかかった。当時、フィッシャーは、GNU Emacs ライセンスを普通の契約として単純に考えていたと言う。それは、GNU Emacs の使用に値札をつけていた。お金のかわりとして、後に加えられる修正へのユーザーのアクセスをストールマンは請求した。フィッシャーは、契約がユニークな文言だったことを覚えている。

「私は他の人達がその値段を受け入れるように求めたと思う。唯一の存在じゃないとしても、当時それは非常に珍しいものでした」と彼は言う。

GNU Emacs ライセンスは、1985年にストールマンがついに GNU Emacs をリリースしたときにデビューした。リリース後、一般のハッカーコミュニティからライセンスの言葉を改善する方法の入力があり、ストールマンはそれを喜んで受け入れた。提案をしたハッカーの一人は、将来のソフトウェア活動家、ジョン ギルモアである。そのときは サン・マイクロシステムズのコンサルタントとして働いていた。ギルモアはコンサルタント業務の一環として、Emacs を ユニックスの企業内バージョンの SunOS に移植した。ギルモアはそれをする過程で、GNU Emacs ライセンスの要求にそって変更を発表した。ギルモアは、ライセンスを負担と見るどころか、ハッカー精神の明瞭で簡潔な表現として見ていた。「それまで、ほとんどのライセンスは非常にインフォーマルなものだったんだ」とギルモアは振り返っている。

このインフォーマルぶりの例として、ギルモアは、 ユニックスのユーティリティの trn の著作権表示を引用している。未来の Perl プログラム言語の作者、ラリー ウォールの書いた、パッチ(パッチはハッカーのジャーゴン)は、どんな大きなプログラムでも、ユニックス・プログラマが修理のソースコードを挿入することを簡単にした。ユーティリティのこの機能を認識して、ウォールは次のような著作権表示をプログラム付属の README ファイルに書いている。

Copyright (c) 1985, Larry Wall
これで金儲けしようとしない限り、つまり自分が書いたふりをしない限り、trn キットの
全部または一部をコピーしてよい。2
こういう表現はハッカー倫理の反映だが、ゆるやかでインフォーマルな倫理の性質を著作権の硬い法律的な言葉に翻訳することの難しさも反映していた。GNU Emacs ライセンスを書いたときに、ストールマンは独占的な派生品をつくる抜け道をふさぐ以上のことをしていた。彼は、弁護士にもハッカーにも同じように理解できる方法でハッカー倫理を表現していたのである。

ギルモアが言うには、他のハッカーが自分のプログラムに GNU Emacs ライセンスを「移植」する方法を議論し始めるのに時間はかからなかった。1986年11月、ユーズネットのやりとりに刺激されて、ギルモアはストールマンに修正を提案する E メールを送った。

たぶん、ライセンスから "EMACS" をとって、「ソフトウェア」とか何か別の名前に置き換えるべきです。遠からず、Emacs が GNU システムの一番大きな部分ではなくなって、GNU システムのすべてにライセンスが適用されることを私達は希望しています。3
もっと一般的なアプローチをするように提案してきたのはギルモアだけではなかった。1986年の暮には、ストールマン自身、GNU プロジェクトの次の大きな一里塚、ソースコードデバッガーにとりかかっていた。そして、両方のプログラムに適用できるようにするため、Emacs ライセンスの改訂方法を模索していた。ストールマンの出した答えは、Emacs 固有の言及をすべて取り去り、GNU プロジェクトのソフトウェアのための一般的な著作権の傘にするというものだった。GNU 一般公衆使用許諾契約書、略して GPL の誕生である。

GPL をつくるにあたって、ストールマンは、試作バージョンを示すためには小数を使い、完成バージョンを示すためには整数を使うというソフトウェアの慣習に従った。ストールマンは、GPL のバージョン1.0を1989年に発表した(ストールマンがプロジェクトを始めたのは1985年)。ユニックスプログラミングの領土へのストールマンの二度目の大きな進撃となった GNU デバッガーのリリース後、ほとんど丸一年かかっている。ライセンスは、その政治的な狙いを詳しく説明した序文がついている。

GNU 一般公衆使用許諾契約書は、次のようなことが確実にできるように設計さ
れています。フリーソフトウェアのコピーを他人にあげたり売ったりする自由を持つ
こと、ソースコードを受け取ること、つまり、ソースコードが欲しければ入手でき
ること、ソフトウェアを変更することができ、新しい自由なプログラムの中にその一
部を使えること、そして、これらのことができるとわかることです。

あなたの権利を守るためには、私達は誰に対しても、これらの権利を否定したり、あなたに
権利放棄を求めたりすることを禁ずるための制限を設ける必要があります。これらの制
限は、あなたがソフトウェアのコピーを配布するとき、またはそれを変更したときには、
あなたの一定の責任となります。4
GPL をつくるにあたって、ストールマンは昔の Emacs コミューンの非公式の教義に追加的調整をせざるをえなかった。彼はかつて、コミューンメンバーに対してすべてのどんな変更も発表することを求めたが、今では、プログラマがストールマンと同じ発表方法で派生バージョンを流通させる場合にのみ発表を要求した。つまり、プライベートな使用のために Emacs を修正しただけのプログラマは、もはやソースコードをストールマンに送り返す必要はない。フリーソフトウェアの教義が妥協する珍しい例になるはずだったが、ストールマンは、フリーソフトウェアのための値札を削除した。 ストールマンとハッカーコミュニティの残りすべてを将来の同じプログラムの交換から閉め出したりしない限り、ユーザーは、彼らの肩越しに見ているストールマン抜きでイノベーションをすることができた。

振りかえって、GPL の譲歩は、初期のEmacs コミューンのビッグブラザー的な社会契約を自分自身が不満に思ったのが原因だったとストールマンは言う。彼が他のハッカーのシステムを覗きこむのが好きなだけに、未来の一部のソースコード管理者がその権力を有害に使うかもしれないという認識は、GPL を抑制的なものにさせたのだ。

「みんなにすべての変更を発表しろと求めるのは間違っている」とストールマンは言う。「一人の特権的な開発者に変更を送るように求めるのは間違いだ。そういう集中化と一人のための特権は、全員が平等の権利を持つ社会とは一致しない。」

ハックが進むにつれ、GPL はストールマンの傑作の一つとして存在するようになった。それは通常は独占的な著作権法の制約の中にコミューンの所有システムを創造した。また、さらに重要なのは、法的なコードとソフトウェアのコードとの間にある知的類似性を証明したことである。GPL の序文の暗黙の前提には、深いメッセージがある。つまり、著作権法をいかがわしいものとして眺めていないで、ハッカーはそれをハックして他のシステムを開始するものとして見るべきなのだ。

「 GPL は、大きなコミュニティを持っているソフトウェアそっくりに発展しました。コミュニティは、ソフトウェアの構造、関心、反対意見、微調整の必要性、そして広く支持されるための穏健な折衷案についてさえ議論します」と、ジェリー・コーエンは言う。彼は、ストールマンがライセンスをつくるのを手伝った別の弁護士である。「プロセスは非常に良く機能しました。GPL は、幾つかのバージョンを経て、広範囲の懐疑的な、時には敵意のある反応を受けるものから、広範囲の支持を受けるものへと変わっていきました。」

1986年の Byte 誌のインタビューで、ストールマンは面白い言葉で GPL を要約した。ハッカーの価値観を賛美することに付け加えて、ストールマンは言う。読者は、「それを知的な柔術の型としても見るべきなんだ。ソフトウェアを買い占める人達がつくった法的システムを使って、彼らに対抗するための知的な柔術の型だね。」5

後年、ストールマンは、もう少しとげのない言葉で GPL の創造について語っている。「ぼくは、倫理的な意味、政治的な意味、法律的な意味で、問題を考えていた。」「ぼくらが生活している法制度によって持続できるものを試みる必要があった。気持ちとしては、新しい社会の基礎になる立法の仕事なんだけど、ぼくは国じゃないから、法律を本当に変えることはできない。存在している法制度はこの目的のために設計されていないけど、その上に増築することでこれを試みる必要があったんだ。」

フリーソフトウェアに関する倫理的、政治的、法律的な問題をストールマンが考えている頃、ドン・ホプキンスというカリフォルニアのハッカーが、彼に68000マイクロプロセッサーのマニュアルを郵送してきた。ホプキンスは、ユニックスハッカーの熱い SF 仲間で、ストールマンからマニュアルを借りていたのである。 ホプキンスは感謝の印に地元のSF 大会で入手したステッカーをたくさん貼って返信封筒を飾っていた。そのステッカーの一枚に "Copyleft (L), All Rights Reversed." とあるのがストールマンの目にとまった。GPL の最初のバージョンのリリース後、ストールマンはステッカーに敬意を表して、フリーソフトウェアライセンスに「コピーレフト」というニックネームをつけた。そのうちに、そのニックネームと速記文字、バックワーズ "C," は、プログラムをフリーソフトウェアとしてリリースし、修正・拡張したプログラムのバージョンもフリーソフトウェアにすることを求める著作権の手法をさすフリーソフトウェア財団公認の代名詞になった。 6

かつてドイツの社会学者、マックス ウェーバーは、すべての偉大な宗教はカリスマの「日常化」と「制度化」の上に確立されていると論じた。すべての成功した宗教は、カリスマまたは初代宗教指導者のメッセージを、文化や時代を超えて翻訳可能な、社会的な、政治的な、倫理的な装置に転換している。

それ自体宗教的ではないものの、GNU GPL は、現代のソフトウェア開発の分権的世界で稼動しているこの「日常化」プロセスの興味深い実例としてふさわしい。その公開以来、他の点ではストールマンに少しも忠誠心を表明しないプログラマや会社が GPL の契約を額面通りに喜んで受け入れてきた。彼ら自身のソフトウェアプログラムの先制的自衛メカニズムとして受け入れている者も少なくない。GPL の規約は制約が強すぎるとして拒絶する者でさえ、その影響を認めている。

キース・ボスティックは、後者のグループに属するハッカーの一人で、GPL 1.0 がリリースされたときはカリフォルニア大学の職員だった。ボスティックの担当部署、コンピュータシステム研究グループ(SRG)は、1970年代後半からユニックスの開発に関わり、現代のインターネット通信の土台になる TCP/IP ネットワークプロトコルを含む、多くの重要部分に責任を持っていた。1980年代の後半になって、ユニックスの商標名の原始保有者である AT&T はユニックスの商品化に力を入れ始め、ボスティックと彼のバークレーの同僚が開発しているユニックスのアカデミックバージョン、BSD(バークレー・ソフトウェア・ディストリビューション)を、商業的テクノロジーの重要な源泉として期待し始めていた。

バークレー BSD のソースコードは、ソースコードライセンス付きで研究者と企業のプログラマにシェアされていたが、この商業化は難問を提起した。バークレーのコードは、 AT&T の独占的コードと混ぜこぜになっていた。その結果、バークレー ディストリビューションはすでに AT&T から ユニックスのソースコードライセンスを取得した機関のみが利用可能だった。AT&T がライセンス料金を上げたとき、それは最初は無害に見えたが、だんだんと重荷になっていった。

1986年に雇われて以来、ボスティックには、デジタル・イクイップメント社の PDP-11 に BSD を移植するという個人的なプロジェクトがあった。ちょうどこの頃、ストールマンが臨時に西海岸に遠征してきて、ボスティックはストールマンと密接な交流を持った。「ストールマンと著作権の議論をしたのはよく覚えています。ストールマンは、CSRG で借りたワークステーションの前に座っていました。」「それからディナーに行って、ディナーが終わっても著作権の議論をしていました。」

ストールマンの好む形にはならなかったが、その議論は最終的に実を結んだ。1989年6月、バークレーは、そのネットワークコードを AT&T の保有する OS の残り部分から分離し、カリフォルニア大学ライセンスで配布した。その契約条件は寛大だった。すなわち、ライセンスをうけるすべての人は、派生的プログラムを広告するにあたって、大学のクレジットを出さなければならない。7GPL とは対照的に、独占的派生品は許可された。一つの問題だけがライセンスの急速な採用を妨げていた。BSD・ネットワーキング・リリースは、完全な OS ではなかったのである。人々はコードを研究することができた。しかし、それは他の独占的にライセンスされたコードと一緒に走らせることができるだけだった。

それから数年間、ボスティックと他のカリフォルニア大学の職員は、失われた部品を交換して BSD を完全なものにするために、つまり、自由に再配布可能なオペレーティングシステムにするために働いた。ユニックスの商標名を管理するための AT&T の子会社、ユニックス・システム・ラボラトリーが法的な異議を出したせいで遅れたが、努力は、1990年代の初めに結実した。しかし、それ以前の段階でも、多数のバークレーのユーティリティがストールマンの GNU プロジェクトに貢献している。

ボスティックは回想して、「GNU の影響がなかったら、実際にやったほど強く出ることはなかっただろうな。」「彼らが熱心に活動している領域が重要なのは明白だったし、ぼくらは、そのアイデアが好きだったんです。」と言う。

1980年代初めには、GPL は、フリーソフトウェア・コミュニティに重力的な効果を及ぼし始めた。フリーソフトウェアとしての資格を与えるためにプログラムを GPL の前に連れて行く必要はなかったけれども( BSD のユーティリティの事例がその証人)、プログラムをGPL の下に置けば明確なメッセージが送られることになる。「 GPL の存在こそが、フリーソフトウェアにするかどうか、どんなライセンスにするかをみんなにとくと考えさせることになったと思う。」とブルース・ペレンスは言っている。彼は、人気のあるユニックスのユーティリティ、エレクトリック・フェンスの作者で未来の Debian GNU/Linux 開発チームのリーダーである。GPL のリリースから数年後、ストールマンの弁護士鑑定済みライセンスを支持して、自家製のエレクトリック・フェンスのライセンスを捨てることにしたとペレンスは言う。「それは実際的でとてもやりやすかった」とペレンスは回想している。

リッチ・モーリンは、ストールマンの最初の GNU 声明をある程度懐疑的に見ていたプログラマだったが、GPL の傘の下に集まり始めたソフトウェアに強い印象を受けたと回想している。SunOS ユーザーグループのリーダーとして、1980年代のモーリンの主な任務の一つは、最良のフリーウェアないしフリーソフトウェアのユーティリティを収録したディストリビューションテープを発送することだった。その仕事をしていると、プログラムの原作者に、プログラムは著作権で保護されているのか、それともパブリックドメインに委ねられているのか、確認の電話をかけねばならないことがしばしばだった。1989年頃、一番優れたソフトウェアプログラムはいつも決まって GPL のライセンスを採用していることに気付き始めたとモーリンは言う。「ソフトウェアのディストリビュータとして、GPL の言葉を見たら、これは楽勝だとわかりました。」とモーリンは回想する。

Sun ユーザーグループのためにディストリビューション テープをまとめるという重要な骨折り仕事の代償として、モーリンは受取人に便利料を請求していた。GPL を採用したプログラムを前にして、モーリンは急に以前の半分くらいの時間でテープをまとめられるようになり、かなりの利潤が出るようになった。商機を感じて、モーリンは自分の趣味にビジネスとしての新しい名前をつけることにした。プライムタイム・フリーウェアである。

そういう営利的利用はフリーソフトウェアが予定する範囲のなかにある。「私たちがフリーソフトウェアと言うとき、それは利用の自由について語っているのであって、価格は問題にしていません。」 GPL の序文の中でストールマンはそうアドバイスしている。ストールマンは1980年代の終わり頃、それをもっと簡単で覚えやすい形に洗練した。「フリービール(無料のビール)のフリーじゃなくて、フリースピーチ(言論の自由)のフリーなのです。」

大部分の企業家は、ストールマンの懇願を無視した。しかし、何人かの企業家にとって、フリーソフトウェアが意味する自由は、自由市場の意味の自由だった。ソフトウェア所有権を商業的方程式から外せば、最小のソフトウェア会社でも、世界の IBM や DEC と競争できる状況が生まれる。

この考え方を理解した最初の企業家の一人がマイケル・ティーマンである。彼はソフトウェアプログラマでスタンフォード大学の大学院生だった。1980年代のティーマンは、お気に入りのアーチストに従う野心的ジャズミュージシャンのように GNU プロジェクトに従っていた。しかし、1987年に GNU C コンパイラがリリースされるまでは、フリーソフトウェアの全ポテンシャルを理解し始めたわけではなかった。GCC を「爆弾」と呼ぶティーマンは、プログラムの存在自体がストールマンのプログラマとしての決意を物語っていたのだと言う。

「ちょうど、どの作家も偉大なアメリカの小説を書くことを夢見るように、プログラマは1980年代を振り返って偉大なアメリカのコンパイラについて語るだろう。」とティーマンは回想する。「突然、ストールマンはそれをやりとげたんだ。恐れ入った。」

「君は、一つだけ欠けていた物の話をしているけど、GCC がそれだった。」とボスティック。「その当時、誰もコンパイラを持っていなかったんだ。GCC ができるまでは。」

ティーマンはストールマンと競うよりも、その仕事に増築することを決めた。GCC のオリジナルバージョンのコードは、110,000行もあったが、プログラムは驚くほど理解しやすいものだったとティーマンは回想する。事実、とてもやさしかったので、5日足らずでマスターして、もう一週間かけてソフトウェアを新しいハードウェアプラットフォーム、ナショナル・セミコンダクターの32032マイクロチップに移植した、とティーマンは言う。それから一年間、C++ プログラム言語のネイチブコンパイラをつくるために、ティーマンはソースコードをいじっていた。ある日ティーマンは、ベル研でプログラムのレクチャーをしているとき、同じ事を達成するために苦労している相当数の AT&T の開発者に遭遇した。

「部屋には、四、五十人の人がいて、何人がネイチブコンパイラに取り組んでいるのか聞いてみたわけさ。」「ホストは、その情報は秘密だけど、部屋を見渡せば一般的概念はわかるかなって言うんだな。」

頭の中で電球がぱっと明るくなるのに時間はかからなかった。「六ヶ月間そのプロジェクトに取り組んでいたところだった。」「密かに思ったね。私かコードは、自由市場が報酬をくれる能力のレベルまで来てるぞって。」

ティーマンは、GNU マニフェストの中に追加的インスピレーションを感じた。それは一部のソフトウェアベンダーの貪欲を激しく非難しながら、消費者の利益の視点から他のベンダーにフリーソフトウェアを奨めていた。GPL は、商業的ソフトウェアの問題から独占力を取り除くことによって、最もスマートなベンダーがサービスとコンサルティングに基づいて競争することを可能にする。この二つはソフトウェア市場の最も利益の大きいところだ。

1999年のエッセーで、ティーマンはストールマンの宣言のインパクトを回想している。「それは社会主義的論争のようにも読めるけれども、私にはもっと違う重要なことがわかった。変装したビジネスプランだ。」8

もう一人の GNU プロジェクトファン、ジョン・ギルモアと組んで、ティーマンは GNU プログラムのカスタマイズに専念するソフトウェアコンサルティングサービスを始めた。その名は Cygnus サポート、会社が最初の開発契約にサインしたのは、1990年2月だった。その年の暮には、会社はサポートと開発契約で725,000ドルの財産を持っていた。

GNU Emacs、GDB、GCC は、開発者向けツールの「ビッグスリー」だが、GNU プロジェクトの最初の5年間にストールマンが開発したのはそれだけではない。1990年までに、ボーン・シェルの GNU バージョン(the Bourne Again Shell と再命名、BASH である)、YACC(Bison と再命名)、awk(gawk と再命名)もつくった。どの GNU プログラムも、GCC のように、一つのベンダーのプログラムだけでなく多様なシステムで走るように設計されねばならなかった。より柔軟性のあるプログラムをつくる過程で、ストールマンと彼の共同製作者はそれらをさらに有能なものに変えることが多かった。

GNU の普遍主義的アプローチを回想して、プライムタイム・フリーウェアのモーリンは、hello という決定的な、しかし日常的なソフトウェアパッケージを指摘している。「C で書かれた5行の hello world プログラムだけど、まるでGNU ディストリビューションみたいにパッケージングされていました。」「そこで、それには Texinfo があり、configure があり、ソフトウェアエンジニアリングに必要なその他すべてがありました。GNU プロジェクトはこれらすべてをスムーズに異なる環境に移植して、パッケージできるように提供していたんです。あれは途方もなく重要な仕事で、 [ストールマンの] すべてのソフトウェアに影響しているだけでなく、他のすべての GNU プロジェクトのソフトウェアにも影響しています。」

ストールマンによれば、ソフトウェアプログラムをつくることが第一目標で、改良することは二番目だった。「各構成要素ごとにそれを改良する方法を見つけたかもしれないし、見つけなかったかもしれない。」と Byte誌にストールマンは言っている。「ある程度、再実装の利益を得ていて、それが多くのシステムをより良くしているんだ。ある程度は、それが、長い間その他たくさんのシステムで仕事をしている理由かな。そういうわけだから、実装に使うアイデアはたくさんある。」9

1980年代の終わり頃には、GNU のツールは有名になっていたが、AI ラボで磨かれたストールマンの設計の気難しさの評判は、まもなくソフトウェア開発コミュニティ中で伝説的になっていた。

1980年代の終わり頃の Sun ユーザーで、1990年代には彼自身のフリーソフトウェアプロジェクト、 Samba を運営することになるジェレミー・アリソンは笑いながらその評判を回想してくれた。アリソンは、1980年代の終わり頃に Emacs を使い始めた。アリソンは、コミュニティの開発モデルに霊感を得て、ソースコードの断片を送ったけれどもストールマンには断られただけだった。

Onionの見出しみたいだった。『子供の祈りに神様の答えは、ノー』ってね。」とアリソン。

ソフトウェアプログラマとしてのストールマンの偉大さは増していったが、それはプロジェクトマネージャとしての彼の苦闘と差し引き勘定になっていた。GNU プロジェクトは、開発者向けツールの創造で成功に次ぐ成功を重ねていたが、役に立つカーネル、すなわち全てのユニックス・システムでどのデバイスとアプリケーションがマイクロプロセッサにアクセスするかを決める中枢の「交通警官」プログラムをつくれないことが、1980年代が終わる頃には不満を誘い始めた。

大部分の GNU プロジェクトの仕事がそうであるように、ストールマンは修正するための既存のプログラムを探すことからカーネル開発を始めた。1980年代末の GNU プロジェクトのレビュー「グニュースレターズ」は、GCC 制作の初期の試みのように、このアプローチが最善ではなかったことを示している。1987年1月の「グニュースレター」によれば、ストールマンはすでに MIT で開発されたユニックスカーネル、TRIX のオーバーホールをしていた。1988年2月、GNU プロジェクトは、カーネギーメロン大学で開発された軽量の「マイクロカーネル」、マッハに関心を移しているとアナウンスした。しかし、オフィシャルな GNU プロジェクトのカーネル開発は、1990年になるまで開始されなかった。10

カーネル開発の遅れは、この時期のストールマンにのしかかっていた懸念の一つに過ぎない。1989年、ロータス・デベロップメント・コーポレーションは、人気の表計算プログラム、ロータス1-2-3のメニューコマンドを模倣したという理由で、ライバルのソフトウェア会社、ペーパーバック・ソフトウェア・インターナショナルに対する訴訟を起こした。ロータスの訴訟は、アップルとマイクロソフトの「ルックアンドフィール」の戦いとともに、GNU プロジェクトにとって厄介な背景になっていた。どちらの訴訟も GNU プロジェクトの領域の外にあるものではあった。どちらも、パソコンのために開発されたオペレーティングシステムとアプリケーションソフトウェアに関するもので、ユニックスとユニックス互換ハードウェアシステムに関するものではない。しかし、それらはソフトウェア開発文化全体に萎縮効果という脅威を及ぼしていた。何かすべきだと決心したストールマンは数人のプログラマの友人を募り、訴訟を爆撃するための雑誌広告をつくった。そして、訴訟をやっている会社に抗議するグループの組織化を手伝った。プログラミングの自由同盟と名乗ったそのグループは、ロータスのオフィスの外やロータスの訴訟をやっているボストンの法廷の外で抗議の集会を持った。

抗議は目立った。11それらはソフトウェア産業の進化的性質を証明している。企業の主戦場は、いつのまにかアプリケーションからオペレーティングシステムに置き換えられていた。実現されていないフリーソフトウェアのオペレーティングシステムづくりの探究では、GNU プロジェクトは絶望的に時代遅れになっているように見えた。実に、ストールマンが「ルックアンドフィール」訴訟との戦いに献身するまったく新しいグループを集める必要性を感じている事実そのものが、一部の観察者の目には時代遅れを補強するものと映っていた。

1990年、マッカーサー財団(the John D. and Catherine T. MacArthur Foundation)は、ストールマンにマッカーサーフェローシップを与えたときに、ストールマンにジーニアス・ステータスを与えた。そこで彼は、いわゆる「ジーニアス助成金」の受領者になった。GNU プロジェクトの開始とフリーソフトウェア哲学の提唱に贈られた240,000ドルの助成金は、当面の幾つかの心配事を解決した。それは真っ先に、FSF をコンサルティング契約を通じて支えてきた無給職員ストールマンに、もっとたくさんの時間を GNU コードを書くために捧げる能力を与えた。12

皮肉にも、助成金は、ストールマンが投票できるようにしてくれた。助成金の数ヶ月前、ストールマンはアパートの火事でわずかばかりの地上の財産を焼かれてしまった。ストールマンは、助成金のときまで自分をテクノロジー・スクエア545の「スクワッター(無断居住者)」13として記載していた。「[有権者登録所]はそれをぼくの住所と認めたがらなくて、マッカーサー助成金に関する新聞記事がそのことを書いてるけど、それから、ぼくを登録させたんだ。」とストールマンは回想している。14

最も重要なことは、マッカーサーのお金がストールマンにさらに自由を与えたことだった。すでにソフトウェアの自由の問題に打ち込んでいたストールマンは、追加された自由を GNU プロジェクトの使命を伝道するための旅をふやすために使うという選択をした。

興味深いことに、GNU プロジェクトとフリーソフトウェア運動一般の決定的な成功は、これらの旅行の一つからやってきた。1990年、ストールマンは、フィンランドのヘルシンキ科学技術大学を訪問した。聴衆の中には21歳のリーナス・トーバルズがいた。GNU プロジェクトの最も大きな隙間を埋めることを運命づけられたフリーソフトウェア・カーネル、リナックス・カーネルの未来の開発者である。

当時、すぐそばにあるヘルシンキ大学の学生だったリーナスは、ストールマンをぼんやり眺めていた。2001年の彼の自伝「それがぼくには楽しかったから」の中で、トーバルズは、「ぼくは初めて、長髪で髭をはやしたハッカーの典型を見た。ヘルシンキにはあまりいない人種だった。」と回想している。15

ストールマンの課題の「社会政治的な」側面にすっかり同調することはなかったが、それでもトーバルズは課題の根底にあるロジック、エラーのないコードを書くプログラマはいない、を高く評価した。ソフトウェアを共有することによって、ハッカーはプログラムの改良を貪欲やエゴの防衛といった個人的な動機よりも優位に置くのだ。

トーバルズは同世代の多くのプログラマと同じように、IBM 7094のようなメインフレームコンピュータではなく、雑多な取り合わせの自家製コンピュータシステムを使って、その爪を研いでいた。トーバルズは、大学の学生として、大学の マイクロ VAX を使い、PC プログラミングからユニックスへと進んだ。 このはしごのような進歩は、マシンアクセスの障壁に関して異なる展望をトーバルズに与えた。ストールマンにとって、主な障害は官僚制と特権だった。トーバルズにとっては、主な障害は地理とヘルシンキの厳冬だった。ヘルシンキ大学に通う道はつらかったので、トーバルズはすぐ、自分のユニックスのアカウントにログインする目的だけのために、キャンパスから離れたアパートの暖かい部屋からログインする方法を探し始めた。

探索は、トーバルズをオペレーティングシステム、ミニックスに導いた。ミニックスはオランダの大学教授、アンドリュー・タネンバウムが教育目的で開発したユニックスの軽量バージョンである。プログラムは、トーバルズが買うことのできた最強のマシン、386 PC のメモリーの限界に適合しているが、まだ幾つか必要な機能がなかった。とくに、トーバルズのマシンが大学のターミナルのまねをして、自宅からマイクロ VAX にログインできるようにする機能のターミナル・エミュレーションを欠いていた。

1991年の夏中、トーバルズは何もないところからミニックスを書き直した。そうしながら他の機能を付け加えた。夏の終わりには、トーバルズは彼の発展的な仕事を「 GNU/Emacs のターミナル・エミュレーション・プログラム」と呼んでいた。16自信を深めて、トーバルズはミニックスのニューズグループにポジックス規格のコピーを求めた。ポジックス規格はプログラムがユニックス互換かどうかを決める青写真である。数週間後、トーバルズはメッセージをポストしているが、それは1983年にストールマンがした最初の GNU の投稿を不気味なほど思い出させる。

ミニックスを使っているみなさん、こんにちは。
いま 386 (486) 互換機用に(フリーの) OS を作っています
(ただの趣味で。GNU のような大きくて専門的なものにはなら
ないでしょうが)。
四月からずっとやってきましたが、ようやく準備が整いかけて
いるところです。
で、ミニックスのどこが好きでどこが嫌いか、教えていただけ
るとうれしいのです。
というのも、ぼくの OS はミニックスにいくらか似ているから
です(とくに(ごく実際的な理由から)ファイルシステムの外
見は同じです)。17
投稿が少しばかり反応を引き出したので、一月たたないうちにトーバルズは、オペレーティングシステムのバージョン0.01、すなわち、ありうる最も初期段階の論外バージョンをインターネットの FTP にポストした。そうしているときに、トーバルズは新システムの名前を思いついた。トーバルズは、自分のパソコンのハードディスクにはプログラムをリナックスとして保存していた。リナックス(Linux)は、ユニックス(Unix)の変種に与える名前のしきたりを尊重した名前で最後の文字が X になっている。この名前は「自己中心的」すぎると思って、トーバルズはフリークス(Freax)という名前に変えたのだったが、FTP サイトの管理者に元の名前に戻されてしまった。

トーバルズは完全なオペレーティングシステムの構築を目指していたが、そうするために必要な機能的ツールの大半は、GNU や BSD や 他のフリーソフトウェア開発者のおかげで、当時すでに利用可能であることを彼も他の開発者も知っていた。リナックス開発チームが利用した最初のツールの一つが GNU C コンパイラ、プログラム言語 C で書かれたプログラムの処理を可能にするツールである。

GCC の統合はリナックスのパフォーマンスを改善したが、問題も提起した。GPL の「ウィルス的な」パワーは、リナックスのカーネルには適用されていなかった。しかし、自分のフリーソフトウェア・オペレーティングシステムの目的のために喜んで GCC を借りようとするトーバルズの意欲は、他のユーザーもまた借りられるようにする一定の義務の徴候だった。トーバルズが後に述べているように、「ぼくは巨人の肩の上に乗っていた」のだった。18彼が、他の人が同じような支援のために彼をあてにしてきたときに何が起きるか考え始めたのは驚くに足りない。決断の十年後、トーバルズはフリーソフトウェア財団のロバート・チャセルに、当時の彼の考え方を要約して繰り返している。

人生の半年をこの事に費やした。それを使えるものにしたかった。そして、何か重要なものを得てそれを終わらせたかった。しかし、それを好きなようにさせたくはなかった。 ぼくは[Linux]をみんながわかるようにしたかった。変更を加え、中心的な内容を改良できるようにしたかった。でも、みんながやっていることも、ちゃんとわかるようにしたかった。改良されたら、ぼく自身それらを改良できるように、いつでもソースにアクセスできるようにしたかった。19
リナックスのバージョン0.12は、初めて完全に統合された GCC を含むバージョンだった。そのリリースのとき、トーバルズはフリーソフトウェア運動への忠誠を発言することに決めた。彼はカーネルの古いライセンスを捨て、それを GPL に置き換えた。その決定は移植の大騒ぎの引き金をひいた。トーバルズとその共同製作者たちは発展するリナックスシチューに他の GNU プログラムを組み込んだ。3年たたないうちに、リナックス開発者は最初の作品、リナックス1.0をリリースした。それは完全に修正された GCC と GDB と BSD ツールのホストを含んでいた。

1994年には、アマルガムのオペレーティングシステムがハッカーの世界で十分な尊敬を勝ち取っていたが、観察者の中には、プロジェクトの最初の数ヶ月のうちに GPL に切り替えたおかげでトーバルズが農園を失わずにすんだことを不思議に思う者もいた。リナックスジャーナルの創刊号で、出版者のロバート・ヤングはトーバルズとのインタビューの席についていた。ヤングはフィンランド人プログラマに、リナックスのソースコードの私的所有権をあきらめて残念じゃないのかと聞くと、トーバルズは残念だと思わないと答えた。「賢い後知恵で考えてみても」とトーバルズは言った。リナックスプロジェクトが初期段階で下した「まさにベストデザインの決定の一つ」が GPL だったと彼は考えていた。20

ゼロアピールまたはストールマンとフリーソフトウェア財団に対する敬意で決定がなされたことは、GPL の移植性の発展を物語っている。ストールマンが認識するまで数年かかったが、リナックス開発の爆発性は Emacs をフラッシュバックする。しかし、今回、爆発を引き起こした革新は Control-R のようなソフトウェアハックではなく、PC アーキテクチャで動くユニックス的システムの新規性である。動機は違うかもしれないが、もちろん、最終的な結果は倫理的設計仕様書に合致している。すなわち、すべてフリーソフトウェアで構成された完全に機能するオペレーティングシステムである。

ミニックスのニュースグループへの最初のEメールメッセージが示すように、トーバルズがリナックスを、GNU 開発者が HURD カーネルを供給してくれるまでのつなぎではない何物かなのだ、と認識するまでに数ヶ月かかった。政治的意味では、このリナックスを見る最初の消極性は、フリーソフトウェア財団への大きな一撃を象徴している。

トーバルズに関する限り、彼は単純に楽しいだけで分解しては組み立てる子供たちの長い系譜の最新の一人にすぎない。とはいえ、打ち捨てられたコンピュータのハードドライブの上で 余生を送ることになってもおかしくなかったプロジェクトがとてつもない成功を収めたことを総括して、 トーバルズは、若かった自分に、支配することを放棄して GPL という契約形態を受け入れるだけの知恵があったからだとする。

1991年のストールマンの科学技術大学での講演と、それに続く GPL への切り替えという決定を回想してトーバルズは次のように書いている。「ちゃんと理解してはいなかったかもしれないが、少なくとも彼の話の一部は頭の中に染み込んだと思う。」21

Endnotes

  1. See Hal Abelson, Mike Fischer, and Joanne Costello, "Software and Copyright Law," updated version (1998).
    http://www.swiss.ai.mit.edu/6805/articles/int-prop/software-copyright.html
  2. See Trn Kit README.
    http://www.za.debian.org/doc/trn/trn-readme
  3. See John Gilmore, quoted from email to author.
  4. See Richard Stallman, et al., "GNU General Public License: Version 1," (February, 1989).
    http://www.gnu.org/copyleft/copying-1.0.html
  5. デイビット・ベッツ、ジョン・エドワード 「リチャード・ストールマンがバイト誌編集者と彼のパブリック・ドメインの[原文のまま]ユニックス互換ソフトウェアシステムについて語る」BYTE誌 (1996年7月) 参照。GNU プロジェクトのウェブサイトに再録。 http://www.gnu.org/gnu/byte-interview.html
    このインタビューは興味深いものを提供している。率直さはもちろんだが、GNU プロジェクトを始めた頃のストールマンの政治姿勢を垣間見ることができる。ストールマンのレトリックの進化を跡付けるためにも有益だ。
    GPL の目的を説明するために、ストールマンは次のように言っている。「ぼくは、知識と情報一般に人がアプローチする方法を変えようとしている。知識を私物化しようとすること、人が知識を使っていいかどうかコントロールしようとすること、他人が知識を共有しようとするのをやめさせること、これらは生産妨害だと思う。」
    2000年8月の作者の声明とこれを対比されたい。「あなたの思考の中で『知的財産』という用語を使わないように説得したい。それは事態を誤解するように導くだろう。なぜなら、その用語は、著作権、特許、商標について一般化するからだ。それらの効果はとても違う。それらを同時に語ろうとするのは全く馬鹿げている。もし誰かが知的財産について、カッコ付きじゃなくて何か言っていたら、それは不明瞭に考えているのだから、それに唱和すべきじゃない。」
  6. Free Software Foundation, 「コピーレフトって何?」参照。http://www.gnu.org/licenses/licenses.ja.html#WhatIsCopyleft
  7. カリフォルニア大学の「迷惑な広告条項」は、その後、問題があることが明らかになった。ハッカーの中には、GPL よりも穏やかな制限を求めて、カリフォルニア大学のライセンスを「カリフォルニア大学」というところだけ自分の組織の名前に置き換えて使っていた者もいた。その結果、他のプログラムから数十ヶ所借りているプログラムは、数十ヶ所の組織名を広告で引用する必要があった。1999年、ストールマン側の十年がかりの働きかけを経て、カリフォルニア大学はこの条項を削ることに同意した。 BSD ライセンスが抱える問題参照。http://www.gnu.org/philosophy/bsd.ja.html
  8. マイケル・ティーマン、「シグナスソリューションズ社の将来性」オープンソース(1999年、オライリー・ジャパン)143ページ
    Michael Tiemann's essay describing his first encounter with the GNU Manifesto and the birth of Cygnus Solutions is available for free online at http://www.oreilly.com/catalog/opensources/book/tiemans.html.
  9. See Richard Stallman, BYTE (1986).
  10. See "HURD History."
    http://www.gnu.org/software/hurd/history.html
  11. プログラミングの自由同盟プレスによれば、抗議は、十六進プロテスト数え唄一番をフィーチャーする目立つものだった。
    1-2-3-4、弁護士はドアから外に放り出せ
    5-6-7-8、技術革新(innovate)は訴訟(litigate)じゃない
    9-A-B-C、1-2-3はいらないぞ
    D-E-F-O、ルックアンドフィールはもうお仕舞い
    http://lpf.ai.mit.edu/Links/prep.ai.mit.edu/demo.final.release
  12. ここでは「書く」という言葉を広い意味で使っている。マッカーサー賞の頃、ストールマンは慢性の手の痛みが始まっていたため、FSF で雇ったタイピストに仕事を口述していた。手の痛みは、ソフトウェアプログラマに多い負傷、反復性ストレス障害(RSI)だったと考えている人もいるが、ストールマンはそれを否定している。「手根管症候群ではなかった」「ぼくの手の問題は、手そのものにあった。手首ではない。」ストールマンは、その後、軽いタッチのキーボードに切り替えてから、タイピストがいなくても仕事をする方法を学んだ。
  13. See Reuven Lerner, "Stallman wins $240,000 MacArthur award," MIT, The Tech (July 18, 1990).
    http://the-tech.mit.edu/V110/N30/rms.30n.html
  14. See Michael Gross, "Richard Stallman: High School Misfit, Symbol of Free Software, MacArthur-certified Genius" (1999).
  15. リーナス・トーバルズ、デイビッド・ダイアモンド共著 「それがぼくには楽しかったから」(小学館プロダクション、2001年)99ページ参照。
  16. リーナス・トーバルズ、デイビッド・ダイアモンド共著 「それがぼくには楽しかったから」(小学館プロダクション、2001年)128ページ参照。
  17. See "Linux 10th Anniversary."
    http://www.linux10.org/history/
  18. リーナス・トーバルズ、デイビッド・ダイアモンド共著 「それがぼくには楽しかったから」(小学館プロダクション、2001年)151ページ参照。
  19. リーナス・トーバルズ、デイビッド・ダイアモンド共著 「それがぼくには楽しかったから」(小学館プロダクション、2001年)152-153ページ参照。
  20. See Robert Young, "Interview with Linus, the Author of Linux," Linux Journal (March 1, 1994).
    http://www.linuxjournal.com/article.php?sid=2736
  21. リーナス・トーバルズ、デイビッド・ダイアモンド共著 「それがぼくには楽しかったから」(小学館プロダクション、2001年)99ページ参照。